人として 7

前回の続きになりますが、レコードもかけて、一流の演奏家の山を聞いているうちに、だんだん惹かされていくわけです。


耳も肥えてきたのです。


そのうちにお姉さんがピアノを買って貫って、ピアノの稽古をしていたのですが、俊哉君も一緒になって弾いていると、俊栽君の方がうまくなってしまう。


非常に才能があったんですれ。


けれども、お父さんの江藤さんは何もいいません。


そして、自分は、一所懸命バイオリンを弾いたり、レコードを聴いているんです。


そして感心したふりをしていたんです。


つまり、人を夢中にさせるには、自分が夢中になって見せなければ駄目なんです(子どもにほんとうに勉強させようと思ったり、何かさせようと思ったら、親が一緒になって、夢中にならなければ駄目なんです。


親が、そばでみていて「一所懸命やりなさい」と言っても、それは駄目なんです、お手本を示さなければ。

人として 6

当時赤ラベルといいまして、外国でつくられたレコードですが、非常に高価だったそうです。


それは片面だけが録音されておりましたが、ビクターの赤いラベルのビクターのバイオリンで有名な、クライスラーとかハイフェッツとかジンバリストなど世界的に一流の演廷家のレコードを買ってきては聞いていたのです。


それから、このお父さんは、外出をすると、さなどは(たいがいの親は、だいじな外国のレコードは高価なので、棚の上にあげて、子供に、触られたらたいへんだといって、その辺には置かないでしょうが)、このだいじなレコードを、子どもの手の届く所に置いて、出てしまうのですね。


そうすると、お父さんの留守に、俊憐君は、バイオリンを手にして、弾けないけれども、恰好だけやっています。


続きは次回に・・・☆

人として 5

とある人は熊本県の小学校の先生で、子供の教育のために、東京へ出てきて、潅区の小学校で音楽の先生をしながら、かたわら、NHKで幼児の時問の音楽番紅を担当していました。


そのお父さんの江藤さんはバイオリンが好きだった人ですが、バイオリニストとまではいかなかったのです。


子供はなんとかよく育てて音楽家にしたいと思っていたのです。


しかし、このお父さんは、子供に対して自分の考えを一つも口に出さない、そこは教育者ですからね。


決して自分の、そういう教育意欲というものを、むき出しに出そうとしないのです。


けれど環境をつくり教育条件をつくりました。自分の家にバイオリンを置いて、自分がときどき弾いていたのです。

人として 4

前回の続きですが、とにかく、乳幼児期から少年少女期を過ぎて青年期までの自分というものを、そこに、一まとめとして、全体としてとらえ、


そして、大人になるために、どうしても通らなければならない段階を経て「一体自分というものは何であろうか」を知るのです。


鏡を見れば、自分の表面はわかりますが、中身まではなかなか掴めません。


その自分の中身というものが解るようになるということが青年期の悩みであります。


それが、余り勉強ばかりしていると解らないのです。


ですから、時には旅行をしたり、スポーツをしたり、クラブ活動などいろいろの機会をとらえて、自分を知り、親は、幅広く子供を理解してやることが必要だと思います。


人として 3

自分は一体何なのか、ということが解らないと、職業も決まらないし、結婚の相手も見つかりませんよね。


星の数程いる男の中で、波の数程ある女の中で、一人ずつが出会うということになると、やはり、そこに、プラスアルファーがないと決められない。


「男なら背170センチ以上で素敵な趣味を持っていて、スポーツ万能で、物知りで、大学を出ていれば誰でもいい」というわけにはいかないものです。


「自分を知っていないと相手も解らない」


「自己を知れば相手も解る」


青年期には自己を知るということがだいじです。


そういう青年期の悩みを親がちっとも理解していないところに、今日の家庭における、親子の関係の根本問題があります。


人として 2

一体自分は何なのか。


自分の好みは何なのか。


例えば皆さん、紅茶がいいですか、コーヒーがいいですかときかれたとき、答えられますか?


「どちらでも」なんてね。


自分が解っていないんですね。


「あなたは、チョコレートがいいんですか、おせんべいがいいんですか?」「両方」、このようにチョコレートとせんべいは両方でもいいけれど、結婚の相手は両方という訳にはいかないですね。


誰か一人に決めなければなりません。


職業もそうですね。


どれか一つにうちこんで、勝負をするということがないと、本当の職業人とはいえません。

人として 1

天にも地にもただ我のみ鯨い


という意味は、お釈迦さまひとりが導いのではなく、人周というものは、およそオギャーとこの世に生まれてきたら、その子どもは一囲限りの人生、この子供は首い存在なのです。


そして、この子どもだけにしかない取り柄というものがあります。


それを見つけてやることが教育なんです。


それが親の責任なのです。


それはむずかしいけれども、すくなくとも、それを見つけてやりましょうと思って、子供を、育てることが、真の親なのです。


ところが、子供が生まれてくると、親は、了供に対して、一種のパターンといいましょうか、型のようなものを当てはめる。


女の子であるとピアノを習わせたりバレーや日本舞踊などをやらせることが多いと思います。


まめ知識(からだのこと) その8

視力は三歳から五歳でいちおう1.0と大人と同様な程度まで発達します。

こんなことを総合して、三歳の子どもは生活する能力の最低基準が整のうといったわけです。

このようにしてともかく人間のヒナ型ができます。

子どもはその状態になりますと、単に母親の分身であることに満足しません。

そして、自己を主張しはじめます。

また当然親のひざから離れて、自分の意志によってあちこちと歩き出します。

そして母親の〃いけません!あぶないよ!〃の連発がおこってきます。

ここでもう一つ子どもの理解のために、成長発達の根本原理をつけ加えておきます。

『すべて生きているものは、常に動いている』ということ、生々流転ということです。

まめ知識(からだのこと) その7

三歳児の独立宣言

そこで目を三歳の子どもに転じてみましょう。

三歳の子ども、これはひとくちでいえば人間として自分で自分のことを処理できる最低の存在です。

最小の人間の姿です。

食べるものを要求すること、おしっこ、うんこをすること、簡単な洋服を着ることなど、どうやらできます。

またいやなときには、これを拒否したり、さっさと逃げて行くこともできます。

ことばの面でも、三歳は動詞、形容詞、助詞を入れて自分の意志を表示します。

生理的な面からみても同じです。

まめ知識(からだのこと) その6

更年期に関連して反抗期の問題は大切です。

更年期が反抗期に相当して現われてくることは非常に興味深いことです。

幼年更年期は篁反抗期、青年更年期は第二反抗期にあたります。

まず反抗の意義と発生の条件につき考察してみます。

反抗が起こるためには抵抗するだけの力姦得していなければなりません。

いま世界の各地で独立運動が起こっています。

強い植民地政策のもとにおいては独立運動は考えられません。

しかし世界的に民主化され、小さい国々もそれぞれの男を得て畠を求め、独立を求めてたち上がります。

この欲求は、人間、いな人類の必然的な欲求なのです。

独立運動がおこったことは国力ののびたことを証明するものです。

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